ウイスキー

               ウイスキー(WHISKY)

ウイスキーは、大麦、ライ麦、トウモロコシなどの穀類を原料として、糖化、発酵させ、蒸留して、さらに樽の中で熟成させた酒です。
この樽熟成により、ウイスキーは、あの特有の琥珀色をした酒になるのです。


ウイスキーの歴史


ウイスキーの歴史は、「生命の水」に始まっています。そのことは、ウイスキーの語源とされる、ゲール語のウシュクベーハー(Uisgebeatha)が、“生命の水”の意味を持つことからも明らかです。中世の錬金術師達は、醸造酒を蒸留する技術を発見したとき、その燃えるような味わいに驚いて、それをアクア・ビテ(Aqua vitae、生命の水)と呼びました。この蒸留技術を、穀物から作った醸造酒、ビールに応用したのが、ウイスキーの始まりです。

そのようなウイスキーがいつ頃から作られ始めたのかは明らかではありませんが、歴史上、記録として最初にウイスキーが現れるのは、12世紀に入ってからになります。

1172年、イングランドのヘンリー2世の軍隊がアイルランドに侵攻したとき、現地でアスキボー(Usquebaugh、生命の水)と呼ばれる、穀物を蒸留した酒を飲んでいるのを見た、と史書に記録が残っています。

その後、1494年、スコットランドの大蔵省の記録には、「修道士ジョン・コーに発芽大麦8ボルを与え、生命の水(aquavitae)をつくらしむ」と記載されており、この頃、すでにスコットランドでもウイスキー作りが行われていたことがわかります。

スッチ・ウイスキー生産団体である、スコッチ・ウイスキー協会は、この1494年を「ウイスキー誕生の年」としており、1994年には「スコッチ・ウイスキー誕生500年記念式典」を開催しました。

しかし、この頃のウイスキーは、まだ蒸留しただけの、無色透明で荒い風味のスピリッツで、現在のような琥珀色に熟成した香味豊かな酒ではありませんでした。

それでは、ウイスキーの樽による貯蔵、熟成は、いつ頃、どのようなきっかけで始まったのでしょうか。それについては、次のような密造にまつわる説が広く信じられてきました。

1707年、それまで2つの王国であった、スッコットランドとイングランドが合併され、大ブリテン王国となりました。これにともない、イングランドで行われてきた、麦芽税の課税、500ガロン以下の小型蒸留器の禁止などの法がスコットランドにも適用されるようになりました。
このとき、スコットランドのローランド地方の大規模業者は、大麦麦芽以外の穀物を原料に取りいれ、麦芽の使用料を減らすことで対抗しましたが、ハイランドの零細な蒸留業者は、山や谷深くに隠れて密造を始めました。彼らは作業のしやすさから、大麦麦芽だけを使い続け、麦芽の乾燥には従来の天日乾燥ではなく、人目につかない屋内で、ハイランド山中に無尽蔵にあるピート(草炭)を燃やして乾燥しました。そして、蒸留したウイスキーをシェリーの空樽に詰めて隠し、徴税吏の目から逃れようとしました。
この結果、ハイランドのウイスキーは、ピートのスモーキー・フレーバーを持つ琥珀色の口当たりの柔らかなスピリッツとなり、人々は偶然にも、樽貯蔵によるウイスキーの熟成効果を知ったのでした。

しかし、この説には、熟成効果が得られるほど長期間、危険を冒してウイスキーを隠匿する不自然さや、当時、マディラ・ワインやシェリーの樽熟成が知られていたはずで、スコットランドの蒸留業者も意図的に樽貯蔵によるウイスキーの質的向上を図っていたのではないか、などの否定的な指摘も多いのです。

ウイスキーの樽熟成の記録として最古のものは、ハイランドの有力者の娘であった、エリザベス・グラントの日記に書かれた、「1822年、ジョージ・スミスが樽で熟成させていたミルクのようにマイルドなウイスキーを、スコットランドを訪れたジョージ4世の求めに応じて献上した」という一文です。これにより、遅くとも19世紀はじめには、ウイスキーの樽による熟成が行われており、一部の上流階級に珍重されていたと考えられます。

エリザベスの日記に登場する、ジョージ・スミス(Georgre Smith)は、1823年、密造根絶の為、小規模蒸留を認めた新しいウイスキー法の施行で、免許取得第1号となった、ザ・グレン・リベット蒸留所の創始者として知られています。

一方、ローランドの大規模蒸留所では、蒸留の効率化を進め、1826年、蒸留業者のロバート・スタイン(Robert Stein)が連続式蒸留機を発明しました。さらに、1831年には、アイルランド、ダブリンで徴収吏をしていた、イーニアス・コフィ(Aeneas Coffey)が、より効率のいい連続式蒸留機を発明しました。彼はこの蒸留機に特許(パテント)をとったため、パテント・スチル(Patent Still)と呼ばれています。

こうした連続式蒸留機の出現により、トウモロコシや小麦など、大麦麦芽以外の穀物を原料としたグレーン・ウイスキーが量産されるようになりました。

1853年、エジンバラの酒商だった、アンドリュー・アッシャー(Andrew Usher)が、モルト・ウイスキーとグレーン・ウイスキーをブレンドしたブレンデッド・ウイスキーを発売しました。モルトの豊かな香味とグレーンの飲みやすさを併せ持った、この新タイプのウイスキーは、人々に広く受け入れられました。ブレンデッド・ウイスキーが支持を広げていくに従い、スコットランドのウイスキー生産の主導権は、大規模なグレーン・ウイスキー蒸留業者に移っていきました。

1877年には、ローランドの大手蒸留業者6社が集まり、D.C.L.(Distillers Company Limited)を結成し、生産、販売両面で大きなシェアを占めるようになりました。

この頃、フランスのブドウ園ではフィロキセラ虫害はびこり、フランス・ワインの高騰、ブランデーの大幅な減産を招きました。しかし、これはブレンデッド・スコッチウイスキーに有利に働きました。これまで、フランスからの輸入酒を愛飲していたイギリスの上流階級は、コニャックに代わる熟成ブラウン・スピリッツとしてウイスキーを飲み始め、それにともない、ジンを愛飲していた庶民層にもウイスキーが浸透していきました。

こうした情勢に目を付けたD.C.L.は、スコットランド各地に散在するモルト・ウイスキー蒸留所を買収したり、自らの手で新規のモルト・ウイスキー蒸留所を建設したりして生産を拡大し、アメリカをはじめ、イギリスと関係の深い国々へ、積極的に輸出するようになり、スコッチ・ウイスキーは、今日の世界の酒の地位を築いていくことになるのです。

アメリカでのウイスキーづくりは、18世紀に入ってから始められたと考えられています。悪名名高い三角貿易に支えられていたアメリカのラムづくりが、1808年の奴隷取引禁止令により急速に衰退し、代わりに穀物を原料にしたウイスキーがペンシルバニアなどで生産されるようになりました。当時の蒸留は、農民の余剰穀物の処理として広がったもので、小型の単式蒸留器による、家内工業的零細な規模がほとんどだったようです。

1791年、独立戦争後の経済再建のため、アメリカ政府は蒸留酒に課税する法律を発布しました。これに反対する農民は、1794年、「ウイスキー暴動」を起こすなど強く抵抗しました。このとき、多数の農民は西部に移り、ケンタッキー、インディアナ、テネシーなどの新天地を求め、この地域に適した穀物である、トウモロコシを栽培し、それを原料にして蒸留酒をつくりはじめました。

現在、アメリカを代表するウイスキーとして知られる、バーボンは、18世紀末、ケンタッキー州、バーボン群で誕生しました。この地で、最初にバーボンをつくった人物として、エバン・ウイリアムス(Evan Williams)や牧師のエライジャ・クレイグ(Elijah Craig)などの名前が挙げられています。ただし、バーボン・ウイスキーという言い方が登場するのは、1821年の広告が最初とされています。

アメリカの酒類生産は、1920年から1933年まで続いた禁酒法によって、表面的には廃止されましたが、一部の人々は、バーボンやコーン・ウイスキーなどを密造しました。彼らは、月明かりの下で蒸留をしたので、ムーンシャイナー(Moonshiher)と呼ばれ、密造ウイスキーは、ムーンシャイン、あるいはマンテン・デュー(Mountain Dew、山の露)と呼ばれました。

1933年、ほとんど効果がなかったばかりか、密造、闇酒場の横行で飲酒人口を増やす結果に終わった、禁酒法が廃止されると、アメリカのウイスキーづくりは、連続式蒸留機が主流になり、資本力の大きい企業に集約されていきました。

カナダの本格的なウイスキーづくりは、アメリカ独立戦争後、移住してきた王党派(独立反対派)の人々によって、ケベックやモントリオールを中心とする地域で始められました。当初は、製粉業者が副業として始めたものでしたが、次第に専業の蒸留業者が設立され、19世紀後半にはアメリカに輸出するまでになりました。アメリカの禁酒法時代には、大量のウイスキーがアメリカに密輸出され、その量は年間4万klにも上ったといいます。カナダのウイスキーづくりは、アメリカ市場に依存する形で発展してきましたが、現在では、世界各国への輸出にも力を入れています。

日本にウイスキーが伝えられたのは、江戸時代末期の1853年、アメリカのペリーが黒船を率いて浦賀に来航したとき、ウイスキーや各種の洋酒を持ってきたのが最初だとされています。その後、明治維新後の1871年から薬種問屋などが、ウイスキーの輸入を始めましたが、量的にはごくわずかにとどまっていました。明治、大正を通じて、ウイスキーは、限られた一部の人々だけに飲まれ、庶民には遠い存在でした。

日本において、日本人の手で、本格的なウイスキーづくりが行われるようになるまでには、それからさらに、50年余りの年月を必要としました。

日本における本格的なウイスキーづくりのスタートは、関東大震災のあった1923年のことでした。この年、京都郊外の山崎に、寿屋(現サントリー)の鳥井信治郎氏によって、日本初のモルト・ウイスキー蒸留所の建設が始まりました。鳥井氏は、スコットランドでウイスキーの製法を学んだ初めての日本人である、竹鶴政孝氏を技師として招き、国産ウイスキーの開発に精力を傾けました。6年後の1929年、山崎蒸留所で熟成した、ジャパニーズ・ウイスキーの第1号、「サントリー・ウイスキー白札」が発売されました。以後、東京醸造、ニッカなどがウイスキー生産に乗り出し、第二次大戦後、オーシャン(現メルシャン)、東洋醸造(現旭化成)、キリン・シーグラムなど多数の企業がウイスキー事業に参入しました。

第二次大戦後の日本では、開放された気分とアメリカ文化への関心もあって、若い世代にウイスキーが受け入れられ、スタンドバーでは、国産ウイスキーが飲まれ、ウイスキーは大衆的な基盤に支えられて、目覚しい発展の時代を迎えることになりました。そして現在では、品質の面で世界5大ウイスキーのひとつに数えられるまでになりました。

5大ウイスキー


5大ウイスキーとは、スコッチ、アイリッシュ、アメリカン(主としてバーボン)、カナディアン、そして日本ウイスキーのことで、原料、製法、風土の違いに由来する香味の違いがあります。



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